疎にして漏らさないためのWEBメディア

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がんばれ受験生、&ゴエモン

2019.1.19
user-icon じねんじょ大先生

いや別にいいんだけどさ、

なんかしっくり来ない言葉

世の受験シーズンが近づいてくると、そこかしこで聞こえてくる言葉。Twitterとかで有名人とかアルファツイッタラーみたいな人とかが、ここぞとばかりに言いまくる、「がんばれ受験生!」という言葉。別に何も悪いこと言ってる訳でも、非難すべき言葉でも何でもない。んだけども、なんかしっくり来ない。なんかこう、投げっぱなし感みたいなのを感じる。言ってるだけ感というか。「たけし、受験がんばれ」とかなら分かる。けどここで言っている「受験生」というのは多分誰のことも指していない。具体的に誰のことも思い浮かべずに言っている。つまり誰にも言っていないのと同じなんではないかと。誰にも向けられていない応援というのもまぁ別に悪いということは無いんだろうけど。そうすることで誰かが傷つく訳でもないし、その言葉を励みにする人とかも居るんだろうけども。それを言っている人が1段上からモノを言っているような感じがしてしまう。祭で横綱が壇上から餅撒いてる感じというか。「頑張れ」という言葉を誰のことも見ずに振りまいているような。

経験者として

「がんばれ受験生!」と言う側の殆どは過去に大学受験を終えていたり、大学受験をこの先する予定のない大人だったりする。で、その経験者、多少なり人生の先輩として少なからず言えることはある。

受験なんかで人生は決まらない

ということである。自分が高校生の頃に周りを見ていてもそうだったが、大学受験を控えた受験生の中には、どこの大学に行くかで人生が決まる、と思っている人が少なからずいる。けっこういる。で、大学を卒業して働いたりしていると、全然そんなことないってことに多くの人は気づくはずだ。大学行った後も頑張んなきゃいけないし、大学受験失敗しても全然取り戻せると。そもそも受験勉強なんか将来役に立たないような内容ばかりだ。けど勉強することで知識や知性が磨かれて、人として豊かになったり、生活がちょっと楽しくなったりする。だから、受験をすることでそういう勉強をする機会を得られて良かったね。ってくらいで良いのではなかろうか。受験当日に頑張れとか言われても実力は変わらないし。

それとは対象的なのが「がんばれゴエモン」である。先述の「がんばれ受験生!」と言葉としてはだいたい同じであるが、言葉に対する責任感が全然違う。「がんばれ」と言っておいて、その実がんばらなければならないのはゴエモンを操作する我々である。ただ声を出して応援するだけではゴエモンは頑張らないし、ゴエモンは我々の操作に従うだけの傀儡であり、その責任はいつだって我々に返ってくる。そしてゲームオーバーしてもまた始めればいいじゃないってことを教えてくれる素晴らしいゲームなのである。やったことないけど。

まとめ

受験生を応援することは別に良いし、受験生は受験生で勝手に頑張ったら良い(頑張らなくても良い)けど、何もしなければゴエモンは頑張ってくれないよってことです。