疎にして漏らさないためのWEBメディア

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相対的衛生観念と絶対的「悪」

2019.1.16
user-icon じねんじょ大先生

それぞれの絶対不可侵領域

他人が使った石鹸は果たしてキレイなのか

日々様々に人と接していても中々に見えづらいところではあるが、個々人に於ける「衛生観念」と呼ぶべきものは実に人それぞれである。公共のトイレを利用することに抵抗がある人、電車やバスのつり革を掴めない人、他者との食物の共有を拒む人や外ではマスクを外せない人など、その対象や度合いは様々である。そしてそれは単に「度合い」だけの話でもなかったりする。

「衛生」への意識というものはその人の部屋だったり、水回りの扱いだったりとある程度プライベートな領域に関わる部分が多いため、それなりに親密だったり多くの時間を共に過ごしていなければ知ら(れ)ずに済む訳であるが、そのようにより個々人のドメスティックな領域に留まっているからこそ、そのあり様は種々多様だ。

まず「衛生」という言葉を辞書で引いてみると、”健康を守り、病気の予防をはかること。清潔に保つこと。”とある。即ちそれは人が本能から、或いは経験則から編み出した、自身の身体を守るための意識(或いは無意識)と言えるだろう。従ってそれはその人が生まれ育った環境への依存が大きく、例えば家族構成であったり、生まれ育った地域の差であったりするのだと思われる。

世界にひとつだけの何某

卑近な例として、私の知人男性は所謂一人っ子として育っているのであるが、幼少の頃から与えられる物や手に入れるものの多くは”自分だけのもの”であり、何かを他者と共有して食べたり使ったりする経験が極めて少なかったらしい。その結果(と一概に言ってしまうのはやや乱暴かもしれないが)、彼は他者と飲料を飲み回すことや身体的な接触をすることに少なからず汚らわしさのようなものを感じるようである。しかしだからと言って彼が潔癖症なのかといえば必ずしもそうとは言い切れず、自身の部屋は(本人曰く)足の踏み場もないくらい整頓がなされていないらしい。

対して私は4人兄弟の末っ子として生まれ、与えられるものは基本的に誰かの使い古し・着古しであり、遊ぶものであれ食べるものであれ着るものであれ、”自分だけのもの”などこの世に存在しないかのような環境で育っている。結果、現在部屋はまぁまぁ汚く、他者との身体接触に対してもあまり敏感ではない。しかし一人暮らしが長くなるにつれ、自分だけのルールのようなものが生まれ、次第にそのルールは自分の「衛生観念」とも呼ぶべき領域にまで侵食してきた。それは「トイレの蓋を閉めること」である。そう、トイレなのである。この話の本題はここからなのである。

限りなく絶対悪に近い存在、「不流便」

見知らぬ誰かからのサプライズギフト

公共のトイレで個室利用をすると便座の蓋を開けたままにしている人、閉じて出る人それぞれである。蓋を閉じて出る人はそれなりに律儀な人であったり衛生意識の高い人であるという印象を何の根拠もなく受けてしまったりするのであるが、蓋を開けるとビックリ、思わぬ贈り物が用意されていたりする。そう、「不流便」である。「流サ不(ズ)ノ便」、つまりうんこが残っているのだ(不流便という言葉は先ほど考えた造語)。アンフラッシュ・モブとでも言うべき、とんだサプライズ演出である。先に述べた通り衛生観念というのは人それぞれであり、謂わば不可侵の領域な訳であるが、この「不流便」ばかりは見過ごす訳にはいかない絶対悪であり、水に流して良い議論ではないのではなかろうか(水に流しておいて欲しいものではあるのだが)。

今や成人向けコンテンツでも人の排泄物を取り扱った作品群は1つのジャンルとして確立され、それらを寵愛する人も一定数いることは広く知られているところではあるが、仮にそこを譲ったとしても”見知らぬ誰かのうんこ”となればそれは看過し難い。「いや、俺家ではうんこ流さないんで!」と言う者がいたとしても、それは公共の場に放たれ、放置された時点で間違いなく害悪であり絶対に流さなくてはならないものである。

「だろう運転」ではなく「かもしれない運転」を

しかしここまで読み進めたところで賢い読者であればお気づきのことだろう。そう、別に皆わざとうんこを流さなかった訳ではないのだと。それは確かにそうだろう。流すボタンの押しが甘かったり、レバーが固かったりと、考えられる原因はある。だが問題はそこではない。問題はうんこを「流した」かどうかではなく、「流れた」かどうか、なのである。大事なのは結果なのだ。うんこは自身の健康状態を知る一つの指針にもなるし、便通が良いことは健康的な状態であると捉えることもできる、可愛い我が子とも呼ぶべき大切なものである。しかしその存在は衛生領域に話を移せばかなりの悪であり、ましてや見知らぬ他人のうんこなど筆舌に尽くし難き最大悪である。その最大悪と予期せぬタイミングで遭遇してしまった時(そしてその邂逅はいつだって予期せぬタイミングだ)、人が受けるショックとストレスは計り知れない。見ただけでも辛いのに、その誰かの忘れ形見を流さなければならないストレスは言うに及ばず。それだけのものを「流したつもり」などという生ぬるい弁明で許す訳にはいかないのだ。どんなに顔が良くて、スタイルが良くて、性格も頭も良い人がいたとしても、うんこをちゃんと流さないのであればもうその人はクズである。というかクソである。もう、うんこそのものである。

最大の問題はうんこの流し忘れが発生した際、ほとんどの場合、当の本人はうんこが流れていないことに気づいていないということだ。だからみんな、ちゃんと確認しよう。どんなに急いでいても、自分のうんこがちゃんと流れたのかどうか、見届けよう。ここまで色々書いたが、言いたいのはそれだけである。他に言うことはもう何もない。以上。