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遅刻論考 第2回:あれほど嫌いだった学校の教師の遅刻論をいつの間にか内面化してしまっている僕ら

2019.6.21
user-icon 高山康平

映像監督にしてプロの遅刻家でもある高山康平による不定期連載『遅刻論考』の第2回です。過去の記事はこちらから。

第1回

集団における遅刻の場合

遅刻は本当に迷惑なのか

前回も述べましたが、遅刻について考える際は、遅刻した当人の観点と遅刻をされた相手の観点の両面から考えるのが基本です。前回は、ついつい見落とされがちな遅刻した当人の立場について考えましたが、今回は遅刻をされた相手の立場から遅刻というものを眺めてみたいと思います。

「遅刻をすると人に迷惑がかかる」というのは、「遅刻はよくない」という考えを支える最大の理屈であり、遅刻を糾弾する前提となっているように思います。しかし、前提となってしまっているがゆえに、そのことについて考えたことのある人は少ないのではないでしょうか。実際考えてみると、遅刻が迷惑になるのかどうかというのは、時と場合、そして相手によってかなり程度が違ってくるのではないでしょうか。

たとえば、学校のホームルームに遅刻しただけで多くの教師はそれを咎めてきます。ひとつには、人間を標準化しようとする近代教育の性格として議論することもできますが、議論がややこしくなりますし、また末端の教師がそのようなことまでいちいち考えているとも思えないので(それはそれで問題なのですが)、その話は随所で取り上げることにします。ここで注目したいのは、数名の生徒の数分の遅刻が実際にホームルームの運営に与える影響です。つまり、その程度がホームルームの運営を困難にする程だとは到底思えないのです。では、ここでかかる「他人への迷惑」とは何なのでしょうか。それは実利的な面よりも心理的、道徳的な負担を指しているのです。

個人責任かシステムエラーか

より詳しく考えてみましょう。まず、平等性の問題です。公教育においては平等性が重視されますから、誰か一人だけが遅刻をして許されるということは不平等だと言えそうです。しかし、ここでもやはり標準化思想の影がちらついてきます。というのも、ここでは各個人の、家から学校までの距離や家庭環境の差、体質の差は無視されているからです。そのような身体の内外の環境はそもそも個人差があり、平等ではないにも関わらず、「平等」の名の下に一分単位での時間厳守が求められていることになります。たとえば、朝に強い人もいれば朝に弱い人もいますが、これは気合いとか心がけの問題ではなく血圧の問題です。低血圧であることはここではハンディキャップであるにも関わらず、学校では全員の血圧が正常値であると措定されているわけです。つまり、一旦すべての生徒を標準的であると措定することで、学校システムの限界を各個人の責任へと問題転嫁しなければ、学校の運営は成立しないわけで、それを「平等」という道徳観念で覆い隠しているだけなのです。

先ほど挙げた環境要因の中でも、とりわけ重要な意味を持つのが体質の個人差です。遅刻は、怠惰であることとよく結びつけられますが、精神的に怠け者であることとある種の生態としてナマケモノであることは区別されるべきです。血圧が低いからといって精神的に怠惰であるとはいえません。そういった区別は、個人の尊重の観点から重要であるばかりではなく、組織や社会について考える際にも非常に重要です。この区分はこの遅刻論考における最重要テーマのうちのひとつですから、また詳しくお話することになるでしょう。

つまらないから遅刻するのだ

さて、ホームルームでの遅刻に話を戻しましょう。教師が遅刻を叱責するのは、道徳的な理由ばかりではないように思います。遅刻は、学校では単純にルール違反ですから、遅刻の常習犯は権威に対する反抗者と見られる傾向があります。そして事実、遅刻にはそういった側面があると思います。

しかしそれは、個人による悪意に満ちた反抗であるというよりは、その他多くの点で体制や組織がうまくいっていないことの表出であると捉えるべきではないでしょうか。つまり、遅刻とは結果に過ぎず、問題の根源は別な所にあるのです。ですから、遅刻を取り締まることによって外見上は統制を保つことができるかもしれませんが、内実的な不満は解消されずにかえってくすぶっていくことになります。集団の中に遅刻者が多く出ることは望ましくありません(許容されるべきは、個人の体質の違いの自然な分布において発生する遅刻であって、遅刻に対する日本的な価値観を丸ごと転換するべきではないのです)。しかし、遅刻をすべて個人責任の問題に置き換えて罰するというやり方では、問題の解決にならないのだということを主張したいのです。「遅刻はよくない」とされる日本社会において遅刻者が多数いる状態は、組織として明らかにエラーを起こしていると言うことができます。それを棚上げして個人の責任を問うのではなく、各成員が抱えている不満と向き合い、それを解消する方向に舵を切るべきです。ですから、反抗的な遅刻は許容するべきでもなければ、取り締まるべきでもないのです。ここでは遅刻はある種の信号として機能しているので、その効用を利用して問題の根源を探っていくきっかけとすることができます。

柔能く剛を制す

以上で見てきたように、集団において遅刻を許容できない場合、問題の根源は組織やシステムの脆弱さにあるのです。遅刻をどこまで許容できるかによって組織としての柔軟さが試されることになるのではないでしょうか。もし数人遅刻しただけで運営が成り立たないようであれば、そもそも組織として脆弱だと言えます。学級委員が遅刻したら副学級委員が代わりを担えばよいのです。

個人間での遅刻の場合

遅刻は個人の問題ではない。人類の問題だ。

これまでは集団における遅刻に絞ってお話しましたが、遅刻された相手が個人も場合でもやはり同じことが当てはまると思います。

少人数の場合や個人の間で起こる遅刻は、集団での遅刻と比べて影響が大きく迷惑の程度も大きくなりやすいです。時にちょっとした遅刻が原因で一日の予定を大幅に変更しなければならなくなることもあるかもしれませんし、多忙な人間にとっては1分のロスが多大なストレスに感じられるかもしれません。こうした遅刻は悪い遅刻であり、必要に応じて遅刻者による補償・補填がなされてしかるべきでしょう。しかし、これから繰り返し述べるように、遅刻がある種の自然法則として避けられないものなのだとしたら、遅刻は、してしまった個人のものとして問題化するのではなく、した人・された人共通の、つまり人類共通の問題として考えられるべきです。そして、遅刻してしまう人のあり方ばかりではなく遅刻された人のあり方について考えることで、社会はよりしなやかな強度を備えるようになるのではないでしょうか。

やさしくて創造的な人間になろう

多くの人は、遅刻をされて待たされている間、「何もできずにただ待っている」のだと言います。しばし待たせる側である筆者としては非常に心苦しくはありますが、思い切って言ってしまうとその間「何もできない」というのは、能力が低いか工夫が足りないか、いずれにしても偉そうに言うことではないのかもしれません。確かに時間通りに相手が来なければ苛々するのが人情というものですが、誰だってできれば苛々したくはないものです。そして、遅刻というものは一度受け入れてしまえば案外ストレスにならないものです。さらに人は状況に合わせて自分の行動を適応させていくことができます。「待たされる」という表現はどこか受け身で消極的な響きがあります。人は時に自分が被害者であることを好む場合があるのかもしれません。被害者であるということは、不平を述べる権利を持つということであり、何かしてもらうべき立場にあるためとても楽です。しかし、それは生産的でもなければ創造的でもありません。「待たされている」側は待たされている限り被害者であり続けます。しかし、その時間を生産的、創造的なものに転換できるならその方が待つ側にとっても良いはずです。適応的で創造的な人間であれば、待つ時間が5分であれ15分であれ30分であれ、あるいはそれ以上であったとしても、それぞれの時間のスケールに合わせた時間の過ごし方ができるのではないでしょうか。また、適応的でも創造的でもなかったとしても、今は消費が多様化されていますから(スマホゲームやネットショッピング、SNSなどなど)、各時間のスケールに合わせて時間を消費することができます。そして待っている時間を有効に使うことができたのなら苛々することなど何もないのです。

「遅刻した奴が悪い」なんてわかりきっている。その先の話をしよう。

遅刻の責任は誰にあるのか、誰が悪いのかという点を議論するならば、それは多くの場合遅刻した当人にあるでしょう(だから遅刻をしたらちゃんと謝りましょう)。しかし、「誰が悪いのか」を議論すること自体、あまり重要なことではないと筆者は考えます。重要なのは遅刻が起こったときに、それにどのように対応していくかということです。集団の場合にしても個人間の場合にしても、遅刻が問題になるということ自体が問題なのです。なぜなら、遅刻が問題になるということは、その集団や個人が遅刻への対応力を欠いているということを意味するからです。「誰が悪いのか」という問題の原因究明は、その再発を防止するためには有効な分析かもしれません。しかし、遅刻について言えば再発を防止するということは健全な努力ではないように思えます。というのも、ある程度健全な社会においては遅刻がないという状態は不自然なことであり、遅刻が全くない状態があるとしたら、そこには過度の精神的あるいは身体的な拘束・圧迫が働いている可能性が高いと言えるからです。次回からはいよいよ、時間についての考察を契機として、遅刻がいかに自然なものとして起こるのかという壮大な考察に取りかかります。