疎にして漏らさないためのWEBメディア

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事実上のチキン南蛮

2019.4.13
user-icon じねんじょ大先生

「事実上」という幻想

唐揚げとチキン南蛮の優劣はさておき

私は職場の近くにある唐揚げ屋さんでよく弁当を買うのだが、中でもタルタルソースが添えられた唐揚げ弁当をよく好んで食べている。鶏の唐揚げとタルタルソースの相性は大変素晴らしく、その唐揚げ屋に行く際は必ずタルタル弁当を注文している。そしてある時こう思ったのだ。

これはもう、事実上のチキン南蛮である。

しかしこれは実際にはチキン南蛮ではない。では何が私にこれを「事実上のチキン南蛮」だと思わせたのだろうか。

事実とは何か

「事実上の」という言葉は、スポーツ中継などでよく見かける。「事実上の決勝戦」というやつだ。実力者同士が決勝ではない場面で相対する時に、「この者(達)同士が決勝で戦ったとしても遜色ない」という意味合いから使われる文句である。

しかしよく考えてみて欲しい。どこが”事実”なのか、と。”事実”上の”決勝戦”であるならば紛れもない実際の決勝戦こそが事実でありそれ以外の如何なる勝負も決勝という事実には到達できない筈である。そう言った場合におそらくこのような反論があるだろう。「一番の実力者同士が戦うのだから、それは実質優勝者を決めるのに等しい戦いである。即ちそれはもう決勝を待たずして優勝者が決まるようなものなのだから”事実上の決勝戦”であると言って差し支えない」と。だが決勝戦を戦うための必要条件は実力ではない。「決勝まで勝ち進んだこと」以外には何も問われていない筈である。実力とは決勝まで勝ち進むための重要な要素のひとつではあるが、不戦勝だろうが相手の反則負けだろうが実力の如何に関わりなく決勝に残った者同士の戦いこそが決勝なのであり、それ以外に決勝という事実は存在しない筈である。そもそも実力評価やランキングというのは、「強いから勝てる」のではなく「勝ったのは、強かったからだ」ということである。

結局のところ「事実上の決勝戦」というのは、「この二人の戦いをこそ決勝と呼ぶべきである」とか「この二人が決勝で戦ってくれたら良いのに」といった認識や願望を映し出したものでしかなく、何ら決勝と呼ぶべき事実は含まれていないのだ。

決勝戦のようなもの

立川志の輔の新作落語で『バールのようなもの』という噺があるが、「事実上の決勝戦」というのはこれに近い響きがある。「事実上の女」といえばそれは女ではなく、「事実上のハワイ」と言ったらそこは確実にハワイではない。「事実上の」という言葉を使うことでそれが事実ではないということが確定してしまうのは何とも皮肉である。

余談だが『バールのようなもの』は隠居から「”のような”を付けるとそれはそのものではなくなる」と教わった主人公が妻に浮気の弁明を試みて失敗するといった内容の噺であるのだが、その中に隠居のこのような台詞がある

-世の中のどんなものに「のような」をつけても全部それではなくなるんだがな…妾(めかけ)だけは違う…妾は妾なんだ。

これは「事実上の」に於いても同じことに思われる。確かに「事実上の決勝戦」は決勝戦ではなく、「事実上の女」と言えばそれは女ではない。しかし「事実上の妾」は紛れもなく妾であるから、もし不義密通を働いている読者がいたとしてもそれを弁明には使わないようご注意されたい。

永遠に到達できない事実

先述の唐揚げも同じように「これはもうチキン南蛮と呼んで差し支えない」という認識と「しかしこれはチキン南蛮ではない」という事実とが両立した結果「事実上のチキン南蛮」というものが生まれたのであろう。因みにチキン南蛮と呼ぶのに必要なのは揚げ鶏と南蛮酢であり、タルタルソースはその定義の外にある。スポーツで言うところの実力に値するのがタルタルソースであるとも言えるだろう。タルタルソースがあれば確かにチキン南蛮は美味しくなる(個人の感想です)が、しかしそれがチキン南蛮であるかどうかにタルタルソースは全く以って関わりが無いのである。なのでいくらタルタルソースの味を磨いたところで、それは限りなくチキン南蛮に近い唐揚げでしかなく、永遠にチキン南蛮には到達できない、数学で習う漸近線とも似ている。

限りなくチキン南蛮に近づいているが決して交わることはない

日常に潜むチキン南蛮もどき達

以下、やや強引なまとめ

チキン南蛮という極めて限定的な例示をしてしまったせいで随分解りにくい話になってしまったが、要するに「事実上の」とは人の認識や願望を反映したに過ぎず、またそれによって本当の事実には到達できないという弊害を併せ持っているのではないかということである。私も「事実上のチキン南蛮」に満足してしまっていることで実際のチキン南蛮を食す機会を逸してしまっている訳で。これに似た話というのは日々の中にも多く転がっているのではなかろうか。

例えば学校の部活動や勉強、受験などが挙げられる。「努力すれば必ず報われる」とか「諦めなければ夢は叶う」みたいなことを大人達が言い、その努力の過程を評価するものだから、皆頑張って練習している姿を先生に見せたり、寝ずに勉強している様を親に見せる。それを見た先生や親は「こんなに頑張っているのだから勝てるに違いない、きっと合格する」といった評価を下し、子ども達もそれを信じるのだ。そしてここで「事実上の成就」や「事実上の合格」が生まれてしまうのである。更にこの「事実上の成就、合格、勝利」といった類はプレッシャーとなり、当人達のパフォーマンスを下げることにも繋がり得る。

チキン南蛮に必要なのは南蛮酢であり、決勝戦に必要なのは勝ち進んだという結果のみである。そこにタルタルソースや実力評価、下馬評みたいなノイズが加わることで本当に必要なことの輪郭が朧げになってはいないだろうか。これは上記の事柄だけでなく、仕事や行政などでも当てはまることが多いだろう。本記事はそうした社会への警鐘であり、未来ある若者達への”事実上の”エールである。