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遅刻論考 第1回 : モノクロームな遅刻には別れを告げよう

2019.5.11
user-icon 高山康平

遅刻論考 序

今回のテーマは、みなさんがついつい疎にして漏らしがちなテーマ「遅刻」です。日常にありふれていながら、なかなか真剣に語られる機会がないのはなぜでしょうか。それは、遅刻の是非は一見すると自明であるように思われるからでしょう。つまり「遅刻はよくない」ということが常識として行き渡っているからです。しかし本稿では、その自明性にあえて穴を穿ち、その中身を覗いてみたいと思います。その穴から見える遅刻論のコスモロジーによって悪一文字で縁取られた日常の遅刻に豊かな色彩を与える試みをしてみたいと思います。簡単に言うと、妙な哲学を振りかざすことで遅刻をある側面において正当化したいのです。時々、海外の遅刻事情を引き合いに出して、我々がいかに狭い見識の中で遅刻を語っているかを論じる記事が見受けられますが、本稿ではそういった類の記事とは趣を異にしていこうと思います。筆者の考えだと、海外の遅刻事情との比較はあまり意味がないからです(その理由については後々述べることになるでしょう)。本稿では、遅刻についての日本的な価値観に基礎を置きつつも、それを時間論、社会論的な文脈から相対化することを目指したいと思います。

違いのわかる人間になるために

「良い遅刻」と「悪い遅刻」

文章には良い文章と悪い文章があり、俳句にも良い俳句と良くない俳句があります。物事は決して一枚岩ではないので、その良し悪しについてはよくよく考えて判断しなければなりません。遅刻にもやはり良い遅刻と悪い遅刻があります。まずはそのことについて考えてみましょう。

「悪い遅刻」

たとえば、映画の上映時刻に遅れて映画館に入った場合を考えてみましょう。これは悪い遅刻と言えるでしょう。遅刻は、遅れた当人の観点とその相手の観点の両面から考えるのが基本です。まず遅れた当人の立場で言えば、映画の冒頭を見逃したことになります。また、相手(ここでは他の観客)の立場で考えても、上映中に人が出入りするわけですから迷惑です。このように両者の立場から見て、およそプラスになることがなければ、それは悪い遅刻と言えるでしょう。

「良い遅刻」

では良い遅刻とはどのような遅刻でしょうか。これは少々複雑です。筆者は時々、出かける前にコーヒーを淹れて飲んでいたら遅刻をしてしまったということがあります。このことに対しては、いくつかの批判が予想されます(筆者は遅刻のプロなので、実際に文句を言われたことはありません)。まず、「コーヒーくらい我慢しなさい」というものです。

しかし、日々コーヒーに依存して生活している人ならわかると思いますが、コーヒーを飲まずに一日を過ごすということはおよそ考えられないことなのです。仮にコーヒーを飲まずに仕事なんてしてしまったらその日のパフォーマンスは最低なものになるでしょう。遅刻の程度にもよりますが、時間に間に合うことと一日良いパフォーマンスをすることと、どちらがより重要であるかを量るのに天秤を持ち出すまでもないでしょう。

また、「コーヒーは途中で買って飲めばいい」という意見があります。この意見は尤もで、ぐうの音もでないように思われます。しかし、正しいからと言って理にかなうかというと、必ずしもそうはなりません。ここにはジレンマがあるのです。というのも、コーヒー依存者はコーヒーを飲んで初めて目を覚ますのです。これは比喩ではなく、文字通りコーヒーを飲む以前は眠っています。つまり、頭がほとんど働いていない状態で、適切な判断ができないのです。ですから、コーヒーを飲む前の時間感覚では、コーヒーを淹れて飲んでもなお十分に間に合うと予測できた場合でも、コーヒーを飲んで初めて当初の見通しが甘かったことに気がつくということがあるのです。そしてその時にはすでにもう遅刻しているというのがたいていの場合です。つまり、「今日は時間がないから、コーヒーは途中で買って飲もう」という選択は実質的には不可能だったことになります。そして、繰り返しになりますが、そんなぼんやりした状態のまま仕事や学校に行けば悲劇です。

以上の例は少し特殊に思えるかもしれませんが、これは寝不足や二日酔いの状態にも当てはまるでしょう(ここで寝不足や二日酔いになったこと自体を糾弾することはナンセンスです。それらはここではすでに結果として与えられたものであり、それを踏まえた上で何が最善かを考えるべきなのです)。


宇宙的視座から遅刻を眺める

遅刻の不確定性原理

以上から明らかなのは、与えられた条件において遅刻は、時間的・生産的な損失を最小限に抑える最善の選択肢となる場合があるのだということです。その意味では遅刻は、その他の点で損失を軽減するためのコストだと言うこともできます。しかしそのことが受け入れられないのは、「遅刻してしまった場合」と「遅刻しなかった場合」を厳密に比較することができないからなのではないでしょうか。

以前、夢の中で亡くなった祖母と会話をしていて、「仕事だからもう行くね」と言うと祖母に「仕事なんていいからもう少し居なさい」と言われ、言われた通りにそこに残っていたら寝坊していて、本当に仕事に遅れてしまったということがありました。

祖母の言葉は、夢の中で有効であっただけではなく、現実に「夢の中に居残らせる」という効果を持っていたわけです。そう考えるとこの夢は現実に対して何か実際的な意味をもっているのかもしれないと考えた筆者は、「もし祖母の言葉を無視して起きて仕事に行っていたら途中で事故に遭っていたかもしれない」と考えました。その祖母の言葉のおかげで事故に遭わずに済んだわけですが、残った結果だけを見ると「ただ遅刻しただけ」となります。

これは端から見れば非常にばからしい話に聞こえるかもしれません。実際に事故に遭う確率を考えれば、寝坊をしなかったとしても事故に遭わなかったばかりか、仕事にも間に合うことができたはずだと考えるのが普通でしょう。しかしそれでも、実際に寝坊しなかった場合と厳密な比較をしたことにはなりません。限りなく低い確率であれ、事故に遭う確率をゼロと考えることはできないからです。

人は遅刻に対して、「しなかった場合」の方が当然良かったはずだと考えがちですが、無理に時間に間に合わせようとすることには何らかのリスクがあります。もちろん「しなかった場合」の方が良いこともあるかもしれませんが、その逆もまたありうるのだということは忘れられがちです。遅刻は純粋なマイナス値だと思われがちですが、常に他の生産・健康に関する値との相関関係の中で働きますので、遅刻による時間的な損失を補ったとして、それによって得られる解は必ずしもゼロとはならないのです。これを「遅刻の不確定性原理」と名付けたいと思います。

部分最適と全体最適

何が言いたいかと言うと、遅刻したその場限り(部分最適)で見ればマイナスに思えるような場合でも、もっと大きなスケール(全体最適)で眺めたらプラスに転ずることもあるのだということです。また、後で述べるつもりですが、遅刻にはその他にもさまざまな効果があります。ほとんどの遅刻は良い面と悪い面を併せ持っているのです。ですから、遅刻してしまいがちな人にとって、目指すべきは遅刻をしないことではなく、遅刻をより良いものにしていくということなのです。

次回は、遅刻をされた相手の立場について考え、そこから見えてくる遅刻の効用についてお話したいと思います。

第二回