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遅刻論考第3回:遅刻論考的相対性理論

2019.10.1
user-icon 高山康平

映像監督にしてプロの遅刻家でもある高山康平による不定期連載『遅刻論考』の第3回です。過去の記事はこちらから。

第1回

第2回

遅刻とは時間であり時間とは運動とそのずれである

すべては遅刻が許されるために

今回はそもそも遅刻の前提となっている時間概念に疑いの目を向けてみたいと思います。

遅刻が時間にまつわる現象であることは言うまでもありませんが、では時間とは一体何なのでしょうか。この問いは、哲学・物理学など多岐の分野に渡る問いであり、それ故取り扱いが非常に難しいです。そこに不勉強な筆者がメスを入れていくことには勇気がいりますが、臆することなく果敢にメスを振り回し、検分してみたいと思います。すべては遅刻が許されるために。

時間は発明品

自然にはそもそも時間というものはありませんでした。わたしたちが「朝」「昼」「夕」「夜」と呼んでいるものは本来分かれ目のないグラデーションを成しており、人間の活動に合わせてそのグラデーションを区切ったに過ぎないのです。ですから、その区分に必然性や絶対性はなく、私たちの生活を支えている時間というのは時間のバージョンのうちのひとつに過ぎないのです。このことは例えば英語の時間区分と比べてみるとわかります。「朝」は英語では”morning”と訳出されますが、「朝」という言葉の指す時間帯と”morning”の指す時間帯には少しずれがあるように思います。また「昼」は英訳するとき通常は”afternoon”とされますが、”afternoon”とはあくまで「”noon(正午)”の後(”after”)」を指すものであり、日本語の「昼」とは少しイメージにずれがあることがわかります。このように時間とは人間作り出した概念に過ぎず、従って遅刻も人間が勝手に作りだしたハリボテの理屈に過ぎないのですが、私たちが生まれながらその概念に包摂されて生きているのも事実です。ですから、今回はあえてその概念の内側から考察してみることにしたいと思います。

結論:遅刻こそ時間の本質である

この先、少し話しがややこしくなるので、まず結論を提示しておくことにします。私たちが「時間」と呼び、感じているものは何なのか考えていくと、結局「遅刻こそが時間の本質である」という結論にたどり着きます。

遅刻とは、各人の時間感覚のずれに起因するものですが、実際には時間”感覚”どころではなく、そもそも人はそれぞれ違う時間を生きているのだと本稿では結論づけます。そしてそうした各人の時間の”ずれ”にこそ時間の本質はあるのです。そしてその”ずれ”を作り出す要因である構造と環境(内部環境と外部環境)について説明していきます。では、改めて時間とは何かという問いから始めましょう。

身の回りの時間を探してみよう

時間とは何かという問いに対して、まず時計を指差して「あれが時間です」と答えてみることにしましょう。筆者は、どうもしっくりこないところがあるのですが、みなさんはどうでしょうか。まったくそうでないということもなさそうですが、何か時間というものを表しきれていないような気もします。時計は時間を指し示すものであって、時間それ自体であるとは言い切れません。では次に、沈みかけている太陽を指差して「あれが時間です」と答えてみます。今度はどうでしょうか。先ほどよりは時間の正体に近づいた感じがします。それでもまだ表しきれていない感じがします。他にも時間がないか探してみましょう。青いバナナが黄色くなりやがて茶色く熟れていくこと、子供が成長すること、顔にしわが刻まれること、昼寝をしすぎて目覚めると空が暗くなっていること、そして遅刻している人を待つことなどなど。これらすべてを総合してみると、時間とは何なのか、時間を感じるということがどういうことなのか少しわかりそうです。

時間とは何か

時間とは何かという問いに対して、上記の例を総合してみたとき、ひとまず「時間とは運動である」と答えておくことができそうです。そして時間を感じるとはどういうことかという問いに対しては、「時間を感じるとは、運動のずれを感じることである」と言えそうです。

ひとつずつ考えてみましょう。

時間とは運動である

まず時間が運動であるというのはどういうことでしょうか。私たちが時間と呼んでいるものは、現在はセシウム原子時計によって規定されていますが、基本的には天体の運動に支えられていることは多くの人が理解できることだと思います。大昔であれば、天空を横切る太陽と月の運動であり、今日ではほとんどの人が地球の自転運動と公転運動によって昼が夜になり、冬が春になるのだということを知っています。しかし、天体の運動だけが時間なのでしょうか。天体の運動が最も基礎的なところで時間を規定していることは確かですが、あらゆる運動がそれ自体時間であるとも言えるのではないでしょうか。生命という時間は筋肉や細胞の運動に支えられており、時代・文明という時間はそれを構成する人や機械の運動によって成り立っています。このことは、筋肉や細胞が運動をやめれば生命という時間は終わり、人や機械の運動が変わったときに一つの時代や文明という時間が終わるということを以てして言うことができます。

ずれると時間が発生する

では次に、時間を感じるとは運動のずれを感じることであるとはどういうことか考えてみましょう。「時間とは運動である」としたとき、この世界は、地球という基礎的な時間を規定する運動主体の上にさらに各運動主体が存在する時間の集合体であると言えます。つまり、大局的な所では時間を共有しつつも、ミクロなところでは各運動主体の運動速度・エネルギーの違いから時間にずれが生じることになります。ディズニーランドでアトラクションに乗るために長蛇の列に列ばなければいけないとき、また交通渋滞に巻き込まれたとき、人は普段の運動速度と列全体の進む運動速度に大きなずれを感じることになります。そのずれが大きければ大きいほどに時間が意識されることになります。眠っている間は呼吸や脈拍などの運動は緩やかになります。一方、地球の自転運動は常に一定の速度を保っていますから、起きて生活している間は調和していた身体と地球の運動が、睡眠時にはずれを生じることになります。だからつい昼寝をしすぎて目覚めたとき時間が跳躍したように感じられるのです。逆に自分の運動の速度と相手の運動の速度が調和していれば時間はさほど感じられません。人と一緒に歩くとき、速度や歩幅が同じだと時間に対するストレスはほとんど感じられないでしょう。

構造の違いが時間を生み出す

しかし、実際には歩く速度ひとつとってみても自分と相手の運動にずれがないということは滅多にありません。なぜなら運動は構造に支えられているからです。犬と人間の運動の仕方や速度が違うのは身体の構造が違うからです。同じように、人間には個体差があり、人間の身体を構成する骨や肉や腱、さらにはそれらがどの程度どのように機能するかは人それぞれ違います。ですから同じ人間であっても歩く歩幅や速度、歩き方は人によって違いがあります。つまり生命は本質的に運動のずれを生きているのだと言えます。しかし生命は個でありながら同時により大きな存在の一部でもあります。生命はそうした大きな存在に対して自己を調和させていくことによって種、社会、共同体の一員となっていきます。生命は、本質的に身体構造の違いから生じる運動のずれを生きながら同時に調和へと指向しているのだと言えます。この時注意しなければならないのは、この調和は「相手」や「基準」への調和ではなく「関係」への調和である点です。多くの動物は(人間を含めて)、周囲の同種の個体、多くは親に身体を同調させることによって振る舞いを獲得していきます(たとえば子供が親の真似をしたがることなど)。しかし、子供が一方的に親に同調しているわけではありません。親は手本を示しながらも子供の運動に合わせて加減をしています。子供は親に合わせ、親は子供に合わせているのです。この時同調する対象やイメージは、両者の関係の中間に現れることになります。そしてそのイメージは種を指向しているのです。ですから、調和とは一方的なものではなく関係的なものであり、個体間に運動のずれがあることを前提としていることがわかります。この考えを遅刻に適用すると、遅れがちな人が時間通りの人に一方的に合わせる努力をするのではなく、他方では時間通りの人が遅刻しがちな人の感覚に合わせるという姿勢が必要だということになります。

客観的? 感覚的? 集合的! 時間とは一体!

時間は集合的に発生している

ここまで、時間は運動に付随するものであること、そして個体差から生じる運動のずれが時間を感じさせるのであり、生命はそのずれを解消し調和を目指す存在であることを述べてきました。

すると、時間とは常に「集合的」なものだと言うことができます。統一的なものでもなければ、個別的なものでもなく、「集合的」なものなのです。

時間が集合的なものであるというのは少しイメージしづらいので、もう少しなじみのある時間概念からアプローチしてみましょう。

みんなの時計・それぞれの時計

私たちは普段、時間というものを客観的に眺め、扱っています。各国・地域ごとに標準時を定め、その時刻に合わせて待ち合わせをしたり仕事をしたりしています。そしてこうした「客観的時間」こそが時間の本質だと思っている人もいるかもしれません。しかし、私たちがなぜこのような「客観的時間」を必要としたかといえば、それは私たちが時間を感覚的なものとして感じているからではないでしょうか。同じ出来事や運動であってもその時々によって、また人によって「あっという間」に感じられたり「のろのろ」と感じられたりと、別様に感じられることがあります。しかし、それぞれの「感覚的時間」を頼りにしていては社会が成り立たないので人は時計(「客観的時間」)を必要としたというわけです。つまり、個人間の時間感覚のずれを時計によって解消しようというわけです。別な言い方をすれば、本来人はそれぞれの身体に固有の時計を持っているにも関わらず、社会生活においてはそれを無化して標準時に身体を合わせさせようとしているのです。(標準化思想と遅刻の関係については第2回を参照)

実感を超えろ

「感覚的時間」という考えに立ったとき、時間を「感覚」する単位は各個人ということになります。すると、各個人の「感覚的時間」が時間の最小単位であり、それゆえ時間の本質であるように思います。しかし、実際にはそのような「感覚的時間」は時間の最小単位であるように「見える」だけであり、私たちの実感を超えたところでは「集合的」な様相を見せるのです。

集合的とは中間発生的ということ

時間が集合的であるとはどのようなことでしょうか。それは、別な言い方をすると関係的で揺らぎを孕んだものであるということです。先ほど、この世界は地球という基礎的な時間を規定する運動主体の上にさらに各運動主体が存在する時間の集合体であると述べましたが、つまり、ある統一的な時間の流れが全存在に覆い被さるようにして世界を律しているのではなく、むしろ私たち一人一人の運動主体(時間主体)が集合することで世界に共通の時間を生み出しているということなのです。ですから、時間とは個々の運動主体に備わっているというよりは、お互いの中間に発生しているのだということです。そのように、運動主体同士の間に発生することを集合的関係的と呼んでいるのです。

誤ったイメージ
実際のイメージ

「固有時」はそれほど固有じゃない

時間が集合的・関係的であるということは様々なレベルで言うことができます。

たとえば、先ほど述べた「客観的時間」(もしくは「時計の時間」)でさえ、実は「集合的」であるということができます。

「客観的時間」は、先述したようにもとは地球の自転・公転運動に基づいて作られた人工的なものです。ですから、それは必ずしも絶対的なものではなく、相対性理論に則れば”地球の「固有時」”であるということができます。「固有時」とは、その空間に固有に流れる時間のことで、その速さはその空間が受ける重力の強さによって変化します。しかし、この固有時という考えにしても少し分け入って考えてみると完全に固有のものとも言い切れないのではないでしょうか。というのも、重力というのは質量に伴われるものですが、地球の固有時は地球自身の持つ重力の影響を受けるだけでなく、太陽やその他の惑星・衛星の重力との相互関係の中で決まるからです。すると、固有時というのは内部環境と外部環境の中間領域に関係的に発生するものであり、かすかな揺らぎをはらんでいることになります。現在ではそうした揺らぎを克服するためにセシウム原子時計が用いられているわけですが、それはつまり時間というものが本来揺らぎをはらんでいる何かであるということを裏付けていると言うことができます。

拡大固有時~外部環境が運動のずれを生み出す~

また、先ほど述べたように、「感覚的時間」も私たちの実感を超えたところでは「集合的」な様相を見せます。まず簡単に言ってしまえば、「感覚的時間」も各個人の経験する固有時なのです。ですから、大きなスケールでは同じ地球という時空間を共有しながらも、各個人の内外の環境の影響の違いから微妙に異なる時間を生きており、しかも環境は一定ではないのでその時間は常に揺らいでいるのです。とはいえ、固有時の考えを個人に適用するのは少し無理があるように思えるかもしれません。というのも、各個人間の受ける重力差は無視できるほど微々たるものだからです。しかし、ここでは固有時というものをもう少し拡大して捉えてみたいと思います。それは、固有時を重力の影響だけで考えるのではなく、雨や母ちゃん、スタバの新作などなどといった様々な要素を組み入れて考えようというものです。固有時の概念における重力の働きとは運動に対する干渉です。重力が強ければ強いほど光の運動を遅らせることになり、その光の速度がその空間における時間の速さの基準となるのです。この重力の働きについていえば、地球上で暮らす私たちはほとんど同じ重力の影響下にいるので、その違いについて考えることは意味がありません。しかし、私たちの普段の暮らしにおいて、私たちの運動に干渉してくるのは重力だけではありません。先ほど例に挙げたように、天候や周囲の人間、心理学に裏打ちされた広告など、多くのものが私たちの足を止めたり遅らせたりします。そして、何がその人の運動に影響を及ぼすかはそれぞれです。たとえば筆者は、スタバの新作に足を止めることはありませんが、信号待ちの間に見上げた空がきれいだとつい自分が遅刻して急いでいることを忘れてしまうことがあります。また、出かける前に口うるさく話しかけてくる同居人がいない代わりに、朝起こしてくれるような人も(本稿執筆時点では)おりません。このように、人は常に周囲の環境から影響を受けながら暮らしており、そして何がどう影響するかは人それぞれなのです。その意味でやはり人はそれぞれ固有の時間を生きており、しかもそれは外部環境との関係的な揺らぎを持つものなのです。

調和と時間の消失~内部環境にも時間が隠れている~

ここまで、外部の環境が及ぼす影響についてお話してきましたが、人間の内部環境にも目を向けてみましょう。

個人は英語ではindividualといい、その語源は「分割不可能なもの」という意味ですが、科学の進展により今では人体が約37兆個の細胞の集合体であり、さらにその中には約100兆個の微生物が棲んでいることがわかるようになってきています。言って見れば個人の人体は一つの生態圏であり、しかも日々の摂食、排泄、呼吸などを通じてその内外は常に入れ替わっているという意味で、そこは私たちが思っている以上にオープンな場所なのです。それでも私たちが普段まとまった一人の人格として時間を経験するのはなぜでしょうか。それは身体を構成する諸要素が調和しているからです。つまり本来人体は細胞や微生物の集合体であるにも関わらず、それらが調和しているために一つの個体として振る舞うことが可能になっているのです。何度も繰り返しているように運動のずれこそが時間の実感なのだとしたら、各要素の運動が調和している状態では時間の感覚は起こりません。ですから、通常個人はその身体の外に対して時間を感じるばかりで内部で時間が発生することはありません。ところが、身体の一部が失調をきたし、身体の内部で運動のずれが起こった場合にはどうでしょうか。あるいは、身体がなんらかの制御を受けて身体内部で運動感覚にずれが生じた場合は。

いつだって自分が「普通」

筆者個人の経験を引き合いに出しますと、数年前に右足のつま先を骨折し、3ヶ月ほど右足を自由に動かせないということがありました。始めのうちは、普段のスピードで歩こうにも右足がついてこないので、どうしてももつれるような歩き方となり、そのことで随分いらいらしていました。ところがある日、自分の感覚が変化していることに気がつきました。自分の動きが遅いと感じるのではなく、周囲の動きが速いのだと感じるようになってきたのです。まず、骨折によって身体の中で運動が不調和をきたし、時間感覚(自分の身体を「遅い」と感じること)が発生しました。しかし、骨折した右足とその他の身体は再び調和していきます。正常に働くその他の身体パーツが右足の運動にスピードを合わせ、また右足も少しずつ回復していきます。そして、身体の内部環境が調和したとき、身体内部における時間感覚は再び消失し、外部との時間感覚だけが残ったのです。そして、身体の内部環境が更新されると、外部との運動のずれにも変化が起こり、これまでよりも周囲の動きが速いと感じるようになったのです。

つまり、時間感覚とは身体の内外の環境の変化やその相互関係によって常に変化するものであり、個人差があるばかりではなくその人が置かれた状況によっても変化する流動的なものなのです。そして、そのように常に揺らいでいるにも関わらず、調和がとれている状態では内部環境には時間が発生しないので、自分の運動速度が「普通」であり、「速い」あるいは「遅い」と感じられるのは常に外部の運動に対してなのです。

まとめ:遅刻という概念をなくそう

もはや自分でも何を言っているのかわからなくなってきたので、まとめましょう。

言いたいことはひとつです。時間とは各運動主体(ここではある集合がその運動において調和している状態を指す)同士の運動のずれによって発生するものなので、遅刻とはまさに時間の本質なのだということです。「遅刻をなくす」ということは、そうした運動のずれを解消することであり、運動の調和を目指すということだと言えます。しかし、(先ほども言いましたが)それは遅れている者が一方的に基準に合わせるということによっては達成されません。なぜなら、運動は構造、内部環境、外部環境、それらの相互作用に影響されるからです。運動とは、そうしたもろもろの関係の結果であり、構造や外部環境といった所与のものが要素として含まれている以上個人の努力でどうにかできる範囲には限りがあります。つまり、運動のずれを前提とし、その調和を目指すのならば、両者が調和を指向しなければいけないのです。早い者は遅い者に合わせ、遅い者は早い者に合わせることによって初めて運動の調和は達成されます。つまり本当に遅刻をなくしたいのならば、遅刻という概念自体をなくさなければいけないのです。「遅刻」という字は、時「刻」に「遅」れると書きますが、客観的で統一的な『時刻』という考え方はフィクションであり実在する人物や事件とは合致しないのです。なぜなら人はそれぞれ違う時間を生きているばかりでなくその時間も常に揺らいでいるからです。

遅刻論考的相対性理論

ここまで述べてきたことを畏れ多くも『遅刻論考的相対性理論』と名付けることにします。そして『遅刻論公的相対性理論』のもとでは、遅刻者は「精神的怠け者」と「生態的ナマケモノ」に分けられることになります。次回はこの「生態的ナマケモノ」について詳しくお話したいと思います。