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すべてのモラトリアムクソ野郎は「平成狸合戦ぽんぽこ」で泣け

2019.2.9
user-icon 山本 蛸

あの日俺はぽんぽこで泣いた

二十三歳とぽんぽこ

平成狸合戦ぽんぽこ。多くの人は金曜ロードショーかなんかで見たことあるだろう映画。ジブリ。高畑勲。僕もたぶん幼少のころに見た記憶がうっすらあって、しかし話の筋は良く覚えておらず、せいぜい狸かわいい、変身たのしそう、あるいは人間の自然破壊への警鐘的な、イメージ。そんなイメージだけあったんですが、しかし二十三歳のときに改めて見る機会があって、そしたら落涙しかけたわけです。この狸たちは俺だ!とか思った。

当時僕は大学を出たてで、新卒での就活に失敗して就職浪人、立場的なものを平たく言うと無職、という塩梅でフラフラしていたのですが、こんないかにもモラトリアムこじらせ時期、という状況において鑑賞した「ぽんぽこ」は僕の心にブチ刺さり、うおお…うおお…となって床に突っ伏したのです。前置きが長くなりましたが、今回は「平成狸合戦ぽんぽこ」がいかにエモいか、という話をします。

狸とは何か、山とは何か

どんな話だっけ

まず「ぽんぽこ」のあらすじをおさらいしておきましょう。超ネタバレです。超ざっくりです。

「狸らが仲良く暮らしている山(多摩丘陵)が、人間の再開発によって破壊される。狸らは変身術やらを駆使してこれを止めさせようとする。しかし健闘むなしく山はなくなり、すみかを失った彼らは人間に変身し、人間社会に紛れ込んで生活していくことになる」

という話です(そして最後はゴルフ場で狸たちが宴会、いつでも誰かが~きっとそばにいる~というガチ名曲が流れて〆)。

そのまま読むとやはり、NO!自然破壊!たぬきかわいそう!て話かと思いますが、まあそうだとは思うんですけど、二十歳超えた僕の心に刺さったのはそこではないわけです。それについて探るために、まず「狸とは何か」、そして彼らの暮らす(暮らしていた)「山とは何か」を考えましょう。

狸vs人間=こどもvs大人

結論から言ってしまうと、狸は「こども」です。そうなると対立項である人間は「大人」。じゃあ山は何かというと、これは「こども時代」。となると人間社会は「大人時代」ということになります。

ぽんぽこ-1
狸とはこどもで、山とはこども時代だ

「こども」って言うと範囲が曖昧ですが、まあ小中高ときて大学とか専門とかまで、という感じかなと思います。これは言い換えると全能感のある時代というか、「この楽しい時間が永遠に続くと思ってる頃」というか。狸たちが、彼らの住む山が壊されるなんて思ってなかったように、こどもたちは今、その時間を永遠と疑わずに遊んでるのです。たぶん我々もそうだった。

しかしその楽しい時期は、いつの間にか終わらせられる。これが「大人時代」の訪れですね。大人時代はじわじわとやってきてこども時代を侵食して、ある日こどもたちは、大人への転換を余儀なくされるのです。

つまり、こうモラトリアム

で、これを「ぽんぽこ」における「狸・山」と「人間・人間社会」に当てはめてみると、「人間の開発によって山が破壊され、狸たちは人間のふりをして人間社会で生きねばならんくなった」というのは、「ずっと遊んでたいけど大人と呼ばれる年齢になって、心はまだこどもの頃と変わらんのに就職せねばならんくなった」ってことになるわけです。ほらモラトリアム!

狸=こどもは、いずれ大人への転換を迫られる

ここまで話して冒頭で述べたような、23歳・就職浪人の僕の心にブチ刺さった理由はおわかりかと思います。そういうわけです。こどもはずっと遊んでたいのに、大人時代が僕らの遊び場をぶち壊しにくるから、その時になったら人間の(大人の)ふりをしないといけないのです。中身はこどものままでも。

じゃあ狸らの、変身能力等によるリベリオンがなにを意味するかというと、僕はこれ「大学四年生の学園祭」みたいなもんなんじゃないかなーと思います。なんというか真面目とは違う方向に頑張ってしまうというか、やらなくてはいけないことから目を背けてるだけかもしれないが、でも自分の大切な何かを守るためにもがいている、というか。つまりこども時代的な「楽しさ」を極大化することで将来に対する不安を覆い隠そうとしてるわけです。だから彼らは凄く楽しそうであり、必死であり、どこか物悲しいのではないかと。

僕も大学四年の時には玉袋を広げて飛んだものです

大人時代の狸たちは

映画の最後に、(人間になった)正吉のモノローグがあります。彼はこんなことを言います(うろ覚えですので、大意)。

「かつての仲間たちの中には、今では狸だった頃のことを忘れて、人間として荒稼ぎしてるやつもいます。人間であることに馴染めず、狸のまま隠れて生きているやつもいます」

人間=大人と考えるならば、この「狸だった頃を忘れて稼いでるやつ」は、就職してバリバリ働いてバリバリ稼いでるやつでしょうね。大人になった自分を全肯定できてるやつ。「あいつ、変わっちまったなあ」とか言われるやつ。一方、狸のまま隠れて生きてるやつは、いわゆる社会のレールからドロップアウトしたやつ、とかでしょうか。「そういえばあいつ今何してんの?」「さぁ…」って言われるやつ。

そして正吉は「どちらにもなれないやつ」です。狸だった過去を忘れることも、人間である今を捨てることもできないやつ(青年期に何かしらこじらせたやつは八割ここに入るんじゃないかなと思う)。なんにせよ大人になるということは、昔は一緒だった連中がバラバラになってしまうということなのでしょう。

そうなるとラストシーン、狸たちがまた一堂に会し、ゴルフ場で宴会をする。これは同窓会みたいなものでしょうか。昔の仲間と大騒ぎ、いやーみんな変わんないねー、とか言う。でもそれはやはりあの頃とは違って、彼らはゴルフ場の緑にあの頃の山を投影していますが、でもそれは山でなくてゴルフ場なのです。人工の、人間社会の一角にあるもの。つまり大人時代の一部でしかないノスタルジーであって、だからどんちゃん騒ぎしててもどこか切ない。「仲間と集まればいつでもそこが山になる」という希望であると同時に、「しかしその山は、現実にはどこにもない」という絶望でもあるわけです。

つまり先述した「この楽しい時間が永遠に続くと思う」のがもはや不可能であるということが、こどもと大人の決定的な違いです。あの頃の山は過去にしか存在しないのです。夜が明けたらまた人間のふりをせねばならんわけですから。

証拠はあんのか証拠は

いちおうの根拠として

と、ここまでガーッと述べてきましたが、結局おまえの妄想ちゃうんけ、と言われたら確かに確証はないんすけど、しかし僕がここまで熱弁するに至った根拠は一応ありまして…次はその辺について述べましょう。

その根拠となるのが物語の佳境、狸たちは種々の反抗を試みても再開発を止めることができず、生き残った狸で最後の力を結集、山を過去の姿に戻します。それは一時的な幻でしかなく、その後についに狸たちは人間に負けるわけですが、このシーンにおいて、正吉たちは「過去の子狸であった頃の自分」と相対します。「あれ、俺たちだ!」って言うんですよ。「あの頃の俺たちだ!」って言うんですよ(たしか)。ここヤバいんすよね。エモがね。

どうしてここが根拠になるかというと、彼らは「山を失われる前の姿に」しようとしただけなのに、「過去の自分たちを見た」からです。つまり山の「過去-現在」は狸たち自身の「過去-現在」と連動しているわけで、だから山とか人間社会とか、狸らの過ごす場所が、イコール「時代」なんじゃねえかと思ったのです。

たぬき

そのシーンの後、彼らは「あの頃の俺」を見つけ、そこに駆け寄っていきますが、しかし過去の山の幻は消えて、変わり果てた(現実の)山が現前します。そして人間のふりをして生きています、というラストシーンへ繋がるわけですが、これ、よく考えてみると「過去の(今よりもこどもの頃の)自分と相対して、しかしそれが幻だと思い知らされて、そして大人になる」ということになります。やばくないですか?

つまりドイツ文学である

教養小説(ビルドゥングスロマーン)である

思いにまかせてグワーッと書いてきましたが、一向にまとまらん気がするので少し話を変えましょう。今まで述べてきたように「狸=こども」「人間=大人」で、「こどもが変化を強いられて挫折を経て大人になる話」であるならば、これは完全にドイツ文学です。教養小説(ビルドゥングスロマーン)というやつですね。

教養小説(自己形成小説とも言う)って何かというと、「主人公が挫折とか色々を経て、内面的な成長をする、その自己形成の過程を描く」、19世紀後半〜20世紀のドイツの小説群です。「思春期に少年から大人に変わる」的なことです。本当の幸せ教えてよ。「成長」と言うといまの感覚だとポジティブな感じがするかもしれませんが、必ずしもそういうニュアンスではありません。まあ僕も大学の授業でやったくらいで特段詳しくはないのですが…

僕はヘルマン・ヘッセとか好きなんですが(知らないって人は中学の国語を思い出してください、エーミールのクジャクヤママユを握りつぶしちゃって「そうか、君はそういうやつなんだな」って言われるやつ覚えてません?それです)、彼の作品、例えば『車輪の下』とか、周囲に期待された天才児が社会との軋轢やらなんやかんやでワーッてなって没落していって頑張ろうとするんだけどやっぱり没落する、って話なんですが。そこまでハードコアなものではないにせよ、やはり『ぽんぽこ』の筋書きは、ヘッセはじめ教養小説と通底するもののような気がします。

まとまらねえ

結論

なんか思うまま書いてきて結局まとまらないというやつですが、この辺で終わりにしましょう。まとめ。

  • 『平成狸合戦ぽんぽこ』はエモくてやばい
  • 「狸=こども」で「人間=大人」、「山=こども時代」で「人間社会=大人時代」だ
  • 「人間の再開発によって山が失われる」というのは「いつのまにか就職などしないといけない年齢になり、大人になることを強いられる」ということだ
  • つまり『ぽんぽこ』は「ずっとこどものままでいたいのに、その時代を終えることを強いられ、それに必死に抗うが、結局大人にならざるを得なかった」という話だ

結論:ぽんぽこまじでエモくてやばい

ご静聴ありがとうございました。