疎にして漏らさないためのWEBメディア

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新約「アイドルはうんこをしない」

2019.5.5
user-icon 高山康平

アイドルだってうんこくらいする

決して疎にして「漏らして」はいけない

「アイドルはうんこをしない」という言説は、日本では、古事記、聖書と比肩するとまでは言わないものの、それなりに広く知れ渡った神話のひとつである。「かわいい」アイドルがうんこのような「汚い」ものを出すはずがないという意味であるらしいが、これはアイドルを神格化しているがゆえの発想である。しかし、かつては雲の上の存在であったアイドルも今や”会える”時代である。会って握手できる神様はそれと引き換えに多額の信仰心を要求してくることさえある。アイドルが依然として神であるかどうかは一旦置いておくとして、その位置づけがかつてとは変わっていることは間違いない。だとすれば「アイドルはうんこをしない」という言説もまたこれまでとは全く違う意味合いを持ってくるように思われる。

神とうんこ

その前に、まず「アイドルはうんこをしない」がアイドルを神聖視することに拠るのだとしたら、これは「神様はうんこをするのか」という問題に置き換えることができる。古今東西様々な神がいるがいずれの神も多くの言葉でもって人々を導いてきた。だとすれば神には口があり、口があるということは腸があるということだ。この問題についてはミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』という小説の中で興味深く論じられている。筆者なりの解釈を混ぜながらまとめると、神に腸があることを認めるならばそこから排泄されるもの(うんこ)もやはり神聖であるということになるが、そうすると我々人間がトイレのドアを閉めるという行動(つまりうんこを汚物とみなして隠すこと)と矛盾が生じることになる。また、人間は楽園から追放された時からうんこを汚物とみなして隠すようになったと解することもできるが、これは人間が服を着るようになったことと同じ原理であり、うんこは性的興奮を呼び起こしうるものとなる。もし人間が神から与えられたものをすべて受け入れるべきなのだとしたら、人間はうんこを受け入れなければならないことになる。かくしてうんこは神学上とても厄介な問題なので、多くの人はうんこについて議論することを避けようとする。そしてそのような不都合なものからは目をそらし、それがまるで存在しないかのように振る舞うことになるのだ。こうして不都合なものを排除した上で成り立った美的な理想を「キッチュ(俗悪なもの)」とクンデラは呼ぶ。実際この記事をここまで読み進めることができなかった人も少なからずいるであろうが、それは必ずしも記事がつまらないということではなく、ただ彼らが不都合な存在を直視できない人たちなのである(と筆者は信じる)。

ステージを降りればそこはトイレである

さて、だとすると「アイドルはうんこをしない」という言説は、キッチュの高らかな宣言であるということになるが、宣言することによってキッチュが本来排除しようとする不都合なもの(うんこ)の存在を却って強く意識させるという逆説がそこには内在している。つまり、この言説はそもそも「アイドルもうんこをする」という事実を前提としているどころか、「アイドルだってうんこくらいする」のだということを裏側から認めているとさえ言えるのだ(本当にアイドルがうんこをしないと信じるならば、そもそも「アイドル」と「うんこ」という言葉を並べて使ったりはしない)。さらに拡大して解釈すれば、ステージの上にいる間は神様として存在することが求められるが、ステージから降りれば人間でありそこではうんこばかりでなくあらゆる人間活動が行われることが是認されており、ただそれらはうんこと同様に覆い隠されてさえいればよいのだということになる。つまり「アイドルはうんこをしない」という言説は元々、アイドルを神格化しつつも同時に人間であることを許容する込み入った心理の表れであったと推測される。しかし、時代は変わり、アイドルがもはや消費物となってしまった昨今においてはこの言説さえ意味を変えざるを得なくなっている。

アイドルはうんこをしない

預言者なき現代

かつて恋のインフレーションを予言した某娘。たちは奇しくもアイドルのインフレーションの渦中に飲まれることとなった。このような時代にアイドルは依然として神たりえるのだろうか。アイドルは単に数として増えただけではない。アイドルは、アイドルである時間が圧倒的に増えたのではないだろうか。かつてのアイドルの存在を支えたのはマスメディアである。マスメディアはイメージや情報を大衆に一方的に伝えるが、それは神からは人間が見えるが人間からは決して神の姿が見えないことと同じ構造をとっている。マスメディアはある種の預言者として神の姿や言葉を民衆に伝えるがそこには情報やイメージの編集の余地が多分にあり、そうした預言者の作為や努力によってアイドルは神として君臨し続けることができた。しかし、ソーシャルメディアの普及によってアイドルのあり方も変わってきている。ソーシャルメディアの時代、誰もが情報の発信者となり、またその流れはもはや一方的なものではなくなった。アイドルはただ雲の上にいるだけではインフレを生き抜くことができなくなってしまったのだ。マスメディアの時代には原理的に民衆に対して露出できる時間や情報量は限られていたが、ソーシャルメディアにおいては実質的に無制限に情報を発信することができる。アイドルは自ら情報やイメージを発信し、その閲覧数やフォロワー数を競うようになった。その領域は無際限に広がり、舞台裏、さらにはプライベートな領域までも切り売りするようになっている。かつてステージの上でのみアイドルでいればよかったものが、いまやプライベートにおいてもアイドルらしくなければいけなくなっているのだ(尤も「アイドルらしさ」も生存競争の中で多様化したが、キャラを演じなければならない点は変わらない)。

便座に座したとき・・・

さて、このようにあらゆる時間・場所においてアイドルであることが求められる時代において、アイドルが唯一アイドルの座を降りることが許される場所がある。そう、トイレである(この文章ではトイレという時、基本的には大小両用の個室空間を指す)。トイレは非常に特殊な場所である。「隠す」という行為は普通それがばれないようにするものだが、トイレという空間は、中で何が行われているか明かであるにも関わらずそれを見えないように隠す装置である。人は「誰でもうんこをする」ということを認めておきながら、それを隠れて行うという妙な習慣を身につけた。そこは公共の空間にぽっかりと開いた穴であり、社会の中にありながら社会から孤絶している(小学生が学校でうんこをしていじめられるのはこのことを理解できないからなのではないかと筆者は思っている)。それはつまり人間が「社会」を作り上げる中で「うんこ」を社会に持ち込ませないように設計したということである。ズボンのファスナーが「社会の窓」と呼ばれるのはまさに文字通りの意味でファスナーが社会の窓だからである。「うんこを社会に持ち込んでは行けない」という考えはほとんど人類に普遍の考えと言って差し支えないだろう。

我が心のオアシス・トイレ

マルセル・デュシャンは便器に「泉」と名付け芸術作品として発表し現代美術の父と呼ばれたが、ここには興味深い示唆が含まれている。というのも、上述の通りうんこは決して社会に持ち込んではいけないとされうんこを社会から排除するための装置としてトイレが存在するならば、トイレは砂漠化した現代の産業社会においてまさにオアシスだからである。社会生物たる人間にとって「うんこ漏らすべからず」というミッションは何よりも優先されなければならない。逆に言えばうんこが引き合いに出された途端、遅刻や途中退場というような通常許されないものまでが許されるようになるのである。現代の社会は砂漠である。多くの人は大企業本位の経済体制に組み込まれ、「会社のため」に個を没しながら働いている。そんな息の詰まる社会空間からほんの束の間エスケープできる空間がトイレである。トイレは内外の対称性が完全に破れた空間でもある。その内部では、人は社会から切り離された完全な個我を獲得しているが、外部から見ればそれはただの板に囲まれた箱であり個人というものを無化する。ある意味でトイレは身体の輪郭を意味のないものする。顔が良かろうが、悪かろうが、太っていようが痩せていようが、背が高かろうが低かろうが、その箱の中に収まってしまえば同じになってしまう。つまり、アイドルもうんこをしているその間だけはアイドルではなくなるのだ。アイドルが神の座に居座ることが難しくなりあらゆる時空間においてアイドルであることを求められるようになった昨今、「アイドルはうんこをしない」という言説は、「アイドルがアイドルであることをやめられるのはうんこをしている間だけである」というように解釈を変える必要があるのではないだろうか。

シュレディンガーの猫とアイドルのうんこ

さて、ここまでで現代アイドルがいかなる意味においてうんこをしないのか考えてきたが、まだ少しだけ考えなければいけない問題が残っている。アイドルもトイレに入ってうんこをしている間だけはアイドルではないことは、上述した通りであるが、果たしてそこで本当にうんこをしているのだろうかという問いである。『シュレディンガーの猫』として知られる、哲学者・物理学者であるシュレディンガーによる有名な思考実験がある。簡単な説明を試みよう。鍵付きの箱の中に猫と毒の入った小瓶を入れ、フタをする。中で小瓶が割れていれば猫は死んでいるし、小瓶が割れていなければ猫は生きていることになる。しかし、フタを開けて確かめるまではその両方の状態が同時に存在していることになる。つまり、猫は死んでいると同時に生きていることになるのだ。もうおわかりだろう。トイレの中のアイドルはシュレディンガーの猫なのだ。先に述べたように、トイレとは個人を無化する箱である。その中では誰もが社会的な文脈を脱ぎ捨てて自由に振る舞う(排便する)ことができる。しかし、そこには当然排便をしない自由も存在することになることを見落としてはいけない。そして、外からは排便をしているのかしていないのか確定することができない以上、その両方の状態が同時に存在していることになる。つまり、アイドルもうんこをしている間だけはアイドルではないわけだが、そもそも本当にうんこをしていないという可能性を完全に消し去ることはできないのだ。すると「アイドルはうんこをしない」という言説は結局神話の領域に収束してゆくらしい。この記事のタイトルは当初「新訳」としていたのだが、どうやら「新約」とした方が適切なのかもしれない。